暮らし

Go To トラベルを活用して沖縄を旅行してきた(後編)

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国際通り

日常生活を離れ、都会の喧騒を離れ、遠く離れた南の島にやってきました。

見えない新型コロナに注意を払いながらの旅行でしたが、そのおかげで混雑とは無縁の旅路でした。当時は、沖縄県独自の緊急事態宣言も明けた頃でしたが、幸い、特に障害も無く旅を続けることができました。

本島南部の那覇空港から中部の恩納村を経て、北端(辺戸岬)まで到達した前編(1日目〜3日目の午前)ですが、後編では恩納村から南端に到達します。

3日目の午後から最終日の5日目までを後編で記述したいと思います。

はじめに

11月も中旬を過ぎ、3連休が近づいた頃、新型コロナウィルスの新規感染者数が急激に増え始めました。日本医師会から強い要請にも影響され、政府はこれを境に、Go To トラベルの見直しを表明しました。

そして、感染が特に拡大している札幌市と大阪市を目的地とする旅行を、11月24日から12月15日までの3週間、割り引きの対象から外すことを決定しました。

また、東京都では12月1日(火)に新たに372人が新型コロナウイルスに感染していることが確認され、これから寒くなる冬を迎えるにあたり、感染の更なる拡大が危惧されているところです。

この先、いったいどのくらいの感染者が増えてしまうのかとても不安です。

では、3日目の午後から最終日の5日目までのレポートです。

沖縄本島map

沖縄本島map(出典:imahachi.com
※地図中、美ら海水族館近くに「伊計島」の記載がありますが正しくは「伊江島」です。「伊計島」の位置は、正しくは「海中道路」の近くの「宮城島」の先にあります。

3日目(午後)

この日の夜からは、「首里城」近くのホテルに宿泊する予定でしたので、午後の頭から恩納村を離れ、那覇に向かうことにしました。

「首里城」はホテルに到着する直前に寄って、観光しようと思ったので、今日の午後はどこを観光しようか? と考えたところ、うるま市の突き出た半島に「海中道路」という魅力的な名称を地図上で発見!ここに向かうことにしました。

那覇から北上して恩納村に向かうときは高速道路を利用したので、恩納村から南下するときは下道の国道58号を利用することにしました。

「海中道路」は地図上では島と島が一本の線で結ばれています。どんな景色に巡り合えるでしょうか。海の上の橋上を車で走れるのでしょうか?

起伏の激しい沖縄の国道を幾多も走り、沖縄のごくごく平凡な街並みを経て、道路標識の中に「海中道路」の表示が見えました。そろそろ現地に近づいている感を覚えたところです。

・・・ついに、車窓の両側に海が広がり、視界の奥に接続先の島が見える光景が広がります。

道路の高さと、海水面の高さにそれほど差異を感じなかったためか、スリルはさほど感じませんでしたが、思いの外、長い長~い直線道路が続きます。

なるほど、確かに海に吸い込まれそうな感覚で、少し大げさに言うと、「モーゼの海割り」のような状態でしょうか。延長は約5kmあるそうです。

残念ながら、お腹が空いていたのと、時間があまり無かったのと、「海中道路」から接続している島々にも到達したかったのでここではカメラを撮ることなく通り過ぎ去りました。

なので「海中道路」のパノラマ写真はこちらでご覧ください。

その後、1997年に開通した全長900mの「浜比嘉大橋」を渡り、「浜比嘉島」の「サザンホープ浜比嘉」で遅めの昼食を食べ、更にその先を進んで、1982年に完成した全長198mの「伊計大橋」を渡り、「伊計島」の端部まで行きました。

ビーチを眺め、島の景色を存分に堪能し、満足感一杯で、ここの島々を去り、「首里城」に向かうことになります。

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浜比嘉島

 

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サザンホープ浜比嘉の「多幸飯御膳」

 

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伊計大橋

 

「首里城」は2019年の10月31日に原因不明の火災に遭っています。私が観光に行った当時もまだ、当然のように修復の最中で、門こそ立派なものの中は所々で工事中の状態でした。

江戸幕府より長い450年もの間、1429年から1879年まで存在した琉球王朝の政治や文化の中心部が、この「首里城」です。

1945年アメリ軍による攻撃により全焼しましたが、その後復元され、2000年12月に世界遺産に登録されています。

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首里城 歓会門

 

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工事中の首里城

4日目

この日は、私の中で、本島南部の観光と戦争と平和に関する施設の訪問がテーマとなりました。

初めに向かったのが「ひめゆりの塔」です。小学校のとき、授業で学んだときから、その名称はずっと記憶にとどまっています。

成人に満たない多くの女子学生が、戦争参加を余儀なくされたと理解していたところです。

名称に塔という文字は含まれていますが、塔はそれほど高くはありません。「ひめゆりの塔」というのは何かというと慰霊碑なのです。

この地に来てわかったことですが、沖縄にはここ以外にも無数に慰霊碑があります。

前日の晩に居酒屋に行った際、隣席で東京から来た方とお話しししたのですが、「ひめゆりの塔」以外にも「白梅之塔」や「バックナー中将戦死之跡」もあるので、訪ねて見てはどうかと勧められたので、この後行ってみました。

数ある慰霊碑の中で、有名で代表的な慰霊碑がこの「ひめゆりの塔」になります。

隣接の「ひめゆり平和祈念資料館」にも入場しました。ここは館内は撮影禁止となっています。

沖縄戦の歴史や、看護要員として従軍した約200名ひめゆり学徒隊の遺影や遺品、生存者の手記や証言などが展示され、当時の様子を知ることができます。

印象的なのは、生き残った人達が年老いた今、当時を振り返る生の様子を語る映像です。

生死を彷徨いながら、生き残り、今だから語れる内容はどんなドキュメンタリー番組より心に突き刺さります。

ここでは、この詳細は語りませんが、館内にいながら、私は目に涙を浮かべて歩いていました。

「ひめゆりの塔」がなぜ、こんなに有名なのか? と考えると、当時のひめゆり学徒隊の中で生き残った人達がいたからこそだと思います。生存者が後世に歴史を伝えてくれたからこそだと思います。

現在の平和と繁栄が過去の戦争が礎となっていることを、現代に生きる私達が心の奥底で留めておかなければならないと感じました。

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「ひめゆりの塔」と「ひめゆり平和祈念資料館」

その後、南端部の「喜屋武岬」、広大な敷地の「平和祈念公園」、猫の楽園「奥武島」、特に「平和祈念公園」内の「沖縄県平和祈念資料館」では沖縄本土の歴史や、太平洋戦争の歴史を学ぶことができました。

再び心に湧き上がる涙もありましたが、知的好奇心も刺激され、食い入るように館内の展示物や映像を見ていました。

喜屋武岬(きゃんみさき)

 

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「平和祈念公園」と「沖縄県平和祈念資料館」と「フィリピン海」

 

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奥武島(おうじま)

この日の極め付けは「ニライカナイ橋」です。沖縄南部の絶景スポットとして有名です。

海に向かって大きくカーブを描く全長660m、高さ80mの橋です。「ニライカナイ」とは海の向こうにある理想郷という意味です。

スリルと面白さで、私は3回も通りました。(笑)

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ニライカナイ橋

日が暮れる前に、「斎場御嶽」にも訪れホテルに戻ることにしました。4日目にもなると沖縄での運転にも慣れてきて、暗くなっても運転ができるようになりました。

5日目

この日は金曜日の朝、沖縄旅行の最終日となりました。夕方飛行機に乗って、この地に別れを告げなければなりません。

この日は朝食前に早起きし、「とまりん」までランニングして、2003年に開業したモノレール「ゆいレール」に乗って「奥武山公園駅」から帰ってきました。

今回の旅行では、沖縄の島嶼部に行くことは出来ませんでしたが、未来の沖縄旅行の準備の一つとして、那覇市泊港を見学してきました。

ちなみに「とまりん」とは、渡嘉敷・座間味・粟国・渡名喜・久米島・南北大東の離島を結ぶ船舶が発着する泊港にある、複合的な旅客ターミナルビルの愛称です。

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「とまりん」と「泊港」で待機しているフェリー

飛行機の出発時間は夕方ですので、日中は空港からそれほど遠くない那覇近郊を廻ることにしました。

訪問地は「旧海軍司令部壕」と「瀬長島」です。

「旧海軍司令部壕」は前述の3日目の晩に居酒屋に行った際、隣席で東京から来た方とお話ししした際に勧められた場所の一つです。

ここは、日本海軍によって掘られた地下陣地で、ツルハシやスコップで設営され、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるために、4000人の兵が収容されいたそうで、多くの将兵が壕内で壮絶な最後を遂げたと言われています。

地下への階段を恐る恐る降りていくと、当時の状態が復元されています。

現在は約300mが公開されており、壕内には司令官室などが残されて、戦時中の様子が生々しく残っていました。

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「旧海軍司令部壕」

そして、最後は最も沖縄らしいとも思える那覇空港近くの「瀬長島」に行ってきました。

島と名前はついていますが、橋で繋がっているため、自動車でアクセス出来ます。

空港直近に位置しているため、那覇空港に発着する飛行機の様子を間近で見ることができます。

ここは、南欧風の素敵なリゾートとなっている「瀬長島ウミカジテラス」。海に向かって並び立つ、白亜の建物が美しいリゾートモールです。

海沿いでアイスクリームを頬張り、最後のひと時を海の眺めながら過ごしました。

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「瀬長島」の「ウミカジテラス」から海を眺める

 

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海際から「瀬長島」の「ウミカジテラス」を眺める

沖縄に来て気づいたこと

起伏が激しい

5日間を通して、車を運転しながら日々感じたことがあります。

沖縄の橋梁って橋の高さがとにかく高い。今回の旅行で代表的な話で言うと、3日目の「ワルミ大橋」はなぜこんなに橋の高さが高いのだろうか?

また、4日目の「ニライカナイ橋」はなぜこんなに大きなカーブを描いて、しかもこんなに高低差があるのか? 運転中も道路と道路が交差する上部の橋はとにかく橋の高さが今まで見たことないくらい高いものが多くある。

素朴な疑問をずっと感じていましたが、日が経つにつれて、一つの答えが出てきました。

沖縄本島は起伏が激しい土地なのです。起伏が激しいからこそ、離れた地点を結ぶときに、高い橋と急な勾配にせざるを得ないのです。

那覇市内を歩いたり、走ったり、首里城や宿泊先ホテルの近辺を散策しても急な坂が多い印象でした。

それは、急な坂が多いと言われる横浜より険しい坂が多かったです。

石敢當

街中を歩いていると家の塀に「石敢當」の文字をよく見かけます。

読み方もわからないけどしょっちゅう見かけるのです。表札でもなく、定礎でもなく、いったい何なのか? 名字なのか? 沖縄では「鈴木」や「佐藤」のように多い名字なのか?

色々調べたところ、「石敢當」というのは、「いしがんとう」と読み、沖縄では魔除けの役割をしていることがわかりました。

沖縄で古くから信じられている魔物=マジムンを撃退する、魔除けの役割を果たす石碑とのことです。

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街で見かけた「石敢當」

全自動洗濯機

長期間の滞在が想定されているからでしょうか? 本土(沖縄の人は、沖縄地方以外の日本をよく、本土と呼ぶようです。)のホテルより、全自動洗濯機の機能が整っており、設置台数も豊富です。

少なくとも、私が今回宿泊したホテルにおいては、洗剤は自動投入されますし、洗いと乾燥はセットになっているため、一度、洗濯物を入れれば、洗濯乾燥が終了するまでやってくれます。

特に前半宿泊したリゾートホテルは、洗濯機が数十台設置されており、とても広かったです。

今回、旅行の直前に「CanDo(キャンドゥ)」で購入した「ランドリーバスケット」が大活躍しました。

折り畳みができる上、洗濯物を「ランドリーバスケット」に入れてしまえば、バスケットごと、一緒に洗えてしまうのでとても便利でした。

まとめ

新型コロナウィルスで落ち込んだ国の経済対策として始まったGo To トラベルですが、そのメリットを活用した方達がいる一方で、Go To トラベルに対して批判的な方達もいます。

また、施策が始まった7月からテレビや新聞をずっと見ていると、新型コロナウィルスの新規感染者数と連動して、評価する論調が上がったり下がったり、批判の論調が下がったり上がったり、の繰り返しだなあとも感じています。

果たして、何が正解なのか、答えは分かりません。

もちろん、旅行者は感染対策に特に留意しなければならないと肝に銘じる必要はあるものと考えています。

未来が見えにくい時期ではありますが、旅行中はとにかく楽しかった。良い思い出を作れることができた。

また再び訪れたい、そして次は新しい場所にも行ってみたいと、未来の夢も同時に思い描くことができました。

次は機会があれば、別の訪問地の記事を書いてみたいと思います。